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伊達家
伊達政宗 だて まさむね (1567~1636) 伊達家
伊達家17代当主。輝宗の嫡男。母は最上義光の妹・義姫。正室は田村清顕の娘・愛姫。幼いころに疱瘡で右目を失い、のちに名将へと成長したことから「独眼竜」の異名をとった。度々迎えた危機を派手ないでたちと演出で乗り越えたことや、馬揃えで軍装を目立つものに統一したことが「伊達者」の語源になったことでも知られる。天文の乱以後、乱れていた家中を統制した父・輝宗の突然の隠居により、18歳で家督を継いだ。当主となると積極的な攻勢にでて、人取橋の戦いや摺上原の戦いで勝利をおさめ、23歳にして奥州に覇を唱えた。しかし、時代は豊臣秀吉によってほぼ天下統一がなされており、圧倒的な国力差から小田原征伐に参陣して秀吉に臣従した。秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、徳川家康から「百万石のお墨付き」をもらって上杉軍と戦うが、領土拡大のために同じ東軍の南部領で一揆を扇動していたことが露見して戦後は陸奥国仙台62万石に留め置かれた。その後、大坂の陣にも徳川方として参加、真田幸村や後藤又兵衛らと激戦を繰り広げた。泰平の世になってからは仙台藩の発展に尽力、3代将軍・家光にも気に入られ、家光から「仙台の親父」と慕われた。
<辞世の句>
曇りなき 心の月を さきたてて 浮世の闇を 照らしてぞ行く
伊達実元 だて さねもと (1527~1587) 伊達家
伊達稙宗の三男。晴宗の弟。のちに伊達家随一の猛将といわれた成実の父。父・稙宗の政策によって越後上杉家へ養子に入る予定だったが、兄・晴宗の反対によって事が天文の乱へと発展したため、取りやめとなった。乱の終結後は晴宗、輝宗、政宗の3代にわたって仕え、政宗の時代には一門の長老として家中をまとめ、外交、調略などで活躍した。
伊達成実 だて しげざね (1568~1646) 伊達家
実元の子。伊達三傑のひとり。「英毅大略あり武勇無双」と謳われた伊達家随一の猛将。政宗の主だった戦には、ほとんど参加し、人取橋の戦い、郡山合戦、摺上原の戦いでは、いずれも逆境を覆す働きをして政宗の奥州制覇に貢献した。小田原征伐の時は、豊臣秀吉との徹底抗戦を主張するが、認められず留守居役を命じられている。政宗に葛西大崎一揆を扇動した疑惑がかけられたときには、人質として蒲生氏郷のもとに赴き、毅然とした態度が気に入られて、解放時に鎧一領、銘刀一腰を送られた。一時、論功行賞の不満から出奔した時期もあったが、片倉景綱らの説得で関ヶ原の戦いの直前には帰参して白石城攻めに加わった。その後は政宗と共に大坂の陣にも参加し、政宗死後も一門の長老として仙台藩2代藩主・忠宗を支えた。成実が書き残した政宗の一代記「成実記」は政宗を知るための重要な資料となっている。
伊達忠宗 だて ただむね (1600~1658) 伊達家
伊達家18代当主。政宗の子。母は正室・愛姫。政宗の死去にともない家督を継いだ。父・政宗が行ってきた乱世ならではの独裁的な統治体制を一新し、治世にあった集団統治体制を確立した。また総検地を行い、他藩と異なっていた土地単位を全国標準に合わせると同時に、領内の余剰米を売って、その利益を農民に還元する「米買制」を導入することで農民の新田開発への意欲を高めて石高を向上させた。その他、仙臺(仙台)城二の丸の造営、寺社仏閣の建立などを行って雇用を生むなど、藩の財政を潤し「守城の名君」と讃えられた。
伊達稙宗 だて たねむね (1488~1565) 伊達家
伊達家14代当主。政宗の曾祖父。足利将軍家との繋がりと政略結婚を駆使して勢力を拡大し、陸奥守護職の地位にまで登りつめた。しかし、越後の上杉定実への入嗣問題や婿である相馬顕胤への伊達領割譲をめぐって子の晴宗と対立し幽閉される。のちに助け出されると、晴宗との全面対決の姿勢をとり、周辺諸国を巻き込んで天文の乱を引き起こす。序盤は優勢であったが、内部で不和が生じて蘆名盛氏が晴宗につくと形成は逆転し、最後は13代将軍・足利義輝の仲裁によって隠居、晴宗に家督を譲ることで決着した。この内乱で伊達家は著しく勢力を失った。
伊達輝宗 だて てるむね (1544~1585) 伊達家
伊達家16代当主。政宗の父。天文の乱で衰えた伊達家を、父・晴宗を含めた旧体制の排除と新しい家臣団の結成によって回復した。祖父・稙宗時代に匹敵する勢いを取り戻すと、突如41歳の若さで隠居し、18歳の嫡男・政宗に家督を譲る。これは、祖父と父、父と自分の二代にわたる親子の争いを繰り返さないための決断といわれている(外交上の問題とも)。しかし、隠居生活も束の間、政宗の積極的な攻勢に屈した二本松(畠山)義継が降伏条件の慈悲を求め訪れて来たとき、不覚にも拉致されてしまう。拉致理由については義継が事前から計画していたとも、暗殺されると誤解したからともいわれるが、よく分かっていない。国境の阿武隈川まで来たところで、事を聞きつけた政宗が追いついてくると、子の足手まといになることだけは避けたかった輝宗自身の指示で、義継もろとも政宗の射撃命令によって亡くなった。
伊達晴宗 だて はるむね (1519~1577) 伊達家
伊達家15代当主。政宗の祖父。最初は父・稙宗の婚姻外交による勢力拡大に従っていたが、弟・実元の越後上杉家への入嗣問題や相馬顕胤への領地割譲をめぐって対立し、重臣・中野宗時、桑折貞長らと図って稙宗を幽閉した。しかし、稙宗はすぐに助け出され、さらに全面対決の姿勢を見せたため、周辺諸国を巻き込んでの天文の乱へと発展してしまった。最後は稙宗が隠居して家督を譲られることで決着したが、従っていた諸大名の独立を招き、伊達家の勢力は著しく衰えた。1564年に子の輝宗に家督を譲るが、実権を握り続けたため、それを良しとしない輝宗とも対立する。輝宗によって側近の中野宗時、牧野久仲親子が追放され、遠藤基信、鬼庭良直ら輝宗派の家臣団が結成されると、観念して実権を譲り閑居した。その後は輝宗との関係も修復し、平穏な余生を過ごした。
伊達秀宗 だて ひでむね (1591~1658) 伊達家
伊達宇和島藩の初代藩主。政宗の庶長子。母は側室・新造の方(猫御前)。豊臣秀吉の猶子となり「秀」の一字を与えられた。1600年、父・政宗と正室・愛姫との間に虎菊丸(のちの忠宗)が生まれ、微妙な立場となるが、1614年に政宗と共に参陣した大坂冬の陣での功で、徳川家康から伊予宇和島10万石を拝領し、伊達宇和島藩を立藩した。1620年、政宗がつけた目付役の家老を誅殺したことで政宗に勘当され、藩の存続も危うくなるが、のちに政宗とは和解し、以後は親密な関係が続いた。
留守政景 るす まさかげ (1549~1607) 伊達家
伊達晴宗の三男。輝宗の弟。父・晴宗の政略によって留守顕宗の養子となり、鎌倉以来つづく名門・留守家の名跡を継いだ。兄・輝宗、甥・政宗を補佐して各地を転戦し、政宗の奥州制覇に貢献した。1600年慶長出羽合戦では、政宗の名代として最上義光の援軍に赴き、上杉家の重臣・直江兼続と戦った。戦後、伊達姓に復することを許され、一関2万石を拝領した。
亘理元宗 わたり もとむね (1530~1594) 伊達家
伊達稙宗の十二男。稙宗、晴宗、輝宗、政宗の四代にわたって伊達家を支えた。鎌倉時代から続く豪族・亘理家の養子となり、天文の乱後に家督を継ぐ。晴宗の時代には使者として上洛、輝宗の時代にも最上家との和平交渉にのぞむなど外交面で活躍した。軍事面においても、謀反を企てた中野宗時の追討や相馬盛胤への備えを一任されるなど、輝宗の信頼が厚かった。政宗の時代に入っても重用され、人取橋の戦いになどに参加。文禄の役でも朝鮮に渡り各地を転戦した。しかし、帰国の翌年、老齢での異国転戦がこたえたか、65歳で病没した。
国分盛重 こくぶん もりしげ (1553~1615) 伊達家
伊達晴宗の五男。輝宗の弟。兄・輝宗の意向で、陸奥国宮城郡を治めていた国分家に代官として送り込まれ、のちに国分家を継いだ。輝宗死後も政宗に仕えて人取橋の戦いなどで活躍したが、国分家の家中を抑えきれず、国分家臣は政宗の直轄とされ、伊達姓に復した。原因は不明だが、のちに出奔し佐竹義宣に仕える。関ヶ原の戦い後も義宣に従って秋田に移り、大坂冬の陣に参加した。
遠藤基信 えんどう もとのぶ (1532~1585) 伊達家
伊達家臣。伊達輝宗の側近。諸国を放浪したのち、伊達家の重臣・中野宗時に仕えた。宗時が輝宗に対して謀反を企てると、それを密告して輝宗に気に入られ重用されるようになる。鬼庭良直と共に輝宗政権の中核を担い、織田信長、徳川家康らとの外交を担当し、輝宗の遠交近攻策を支えた。輝宗隠居後も政宗に仕えて奔走するが、輝宗が二本松(畠山)義継に拉致されて亡くなると、後を追って殉死した。
大内定綱 おおうち さだつな (1545~1610) 伊達家
陸奥国安達郡小浜城主。はじめは田村家に属したが、のち独立して蘆名盛氏を頼った。伊達輝宗が勢力を伸ばすと、輝宗に属し、政宗の代になっても奉公を申し出ていたが、寝返って伊達家を離れた。そのため、政宗に攻められ居城を追われることになり再び蘆名家を頼った。蘆名方として参加した郡山合戦で伊達成実の説得に応じて伊達家に帰参。以後は伊達家一筋に奉公し、摺上原の戦いなどで武功を挙げた。槍術に長けていたという。
鬼庭良直 おににわ よしなお (1513~1585) 伊達家
伊達家臣。伊達輝宗の側近。左月斎の号でも知られる。天文の乱では晴宗方に属して戦い、晴宗の家督相続に貢献した。輝宗が当主となると評定衆に抜擢され、遠藤基信と共に輝宗を支えて一門に列せられる。政宗が当主となってからも重用されたが、人取橋の戦いで政宗の窮地を救うために殿をつとめ壮絶な討死を遂げた。この時、すでに73歳という老齢であったため、甲冑は重いと称して着ず、黄綿帽子をかぶって出陣したと伝わっている。
片倉景綱 かたくら かげつな (1557~1615) 伊達家
伊達家臣。通称・小十郎。米沢の成島八幡宮の神官・片倉景重の次男。伊達三傑のひとりで「政宗の在るところ傍らに小十郎あり」といわれた名参謀。武士の家系ではなかったが、その聡明さを伊達輝宗に見込まれ、梵天丸(のちの政宗)の傅役に抜擢された。政宗が疱瘡で醜く飛び出た右目を嫌い、家臣に突き潰すように命じると、皆が尻込みする中、小十郎一人が進み出て、これを突き潰し政宗との絆を深めたという。軍事面においても人取橋の戦いや摺上原の戦いで活躍して政宗の奥州制覇に貢献。小田原征伐では、豊臣秀吉との徹底抗戦を主張する者が多くを占める中、抗しきれないことを諭して政宗を小田原に参陣させ、伊達家の存続に大きく寄与した。その後も葛西大崎一揆、関白秀次事件など、政宗が度々迎える危機を裏から支え続け、関ヶ原の戦い後は、要衝である白石に1万3千石を拝領した。1614年の大坂冬の陣には病で参加できず、代わりに嫡男・重長を出陣させた。翌15年になっても病は癒えず夏の陣に向かう政宗、重長を見送り、年の暮れに亡くなった。
片倉重長 かたくら しげなが (1585~1659) 伊達家
伊達家臣。景綱の長男。幼名は左門。のちに父と同じ小十郎を名乗る。烏帽子親を伊達家随一の猛将・伊達成実がつとめ、わずか8歳で元服した。智将の父と違い猛将肌で、16歳のときに、父の命令を無視して上杉方の白石城攻めに参加して初陣を飾った。病の父に代わって参陣した大阪夏の陣では、伊達軍の先鋒として後藤又兵衛を討ち取り、真田幸村とも激戦を繰り広げ、「鬼の小十郎」の異名をとった。いきさつには諸説あるが、大坂の陣後、幸村の娘・阿梅を引き取って帰国し、正室が亡くなったあとに後妻とした。
川村重吉 かわむら しげよし (1575~1648) 伊達家
伊達家臣。もとは毛利輝元に仕えたが、関ヶ原での敗戦で毛利家が大減封されると浪人となった。近江国蒲生郡に滞在したときに在京していた伊達政宗に見い出されて家臣となる。土木、治水事業に優れ、広瀬川を利用した用水路づくりや東北最大の河川・北上川の流れを変えるという大事業を成し遂げ、仙台藩の石高を飛躍的に向上させると共に、海運業の発展にも多大な功績を残した。
後藤孫兵衛 ごとう まごべえ (1556~1614) 伊達家
伊達家臣。諱は信康。常に黄色い母衣を背負って戦場を疾駆した猛将で「黄後藤」の異名をとった。輝宗、政宗の二代に仕えて各地を転戦、特に会津の蘆名家との戦いで活躍した。ある日、常に先陣を競っていた原田宗時に決闘を申し込まれたことがあったが、冷静沈着に対応し、信康の人柄に感服した宗時は、以後、お互いお家のために命を投げ打つことを約して親交を深めたという逸話がある。
小梁川宗朝 こやながわ むねとも (1469~1565) 伊達家
伊達家一門。京での武者修行ののち、伊達稙宗に仕えた。稙宗の政策に反対した晴宗が、稙宗を幽閉すると、これを救い出し、近隣諸国の大名らに支援を求めて天文の乱を引き起こした。稙宗方の主力として戦うが敗れ、稙宗が隠居となると、これに従って丸森城に入り、稙宗が亡くなると殉死した。
白石宗実 しろいし むねざね (1553~1599) 伊達家
伊達家臣。輝宗、政宗二代にわったて仕え、伊達家一門にも列せられた。人取橋の戦い、摺上原の戦いで活躍。特に第四陣をつとめた摺上原の戦いでは第一陣と二陣が崩れるなか、伊達成実と共に戦況を覆す大功を挙げた。奥州仕置後、政宗が岩出山に移封となると、胆沢郡水沢に1万5千石を得る。その後、文禄の役にも従軍して活躍するが、帰国して間もなく京都伏見で病没した。
鈴木元信 すずき もとのぶ (1555~1620) 伊達家
伊達家臣。輝宗、政宗二代にわたって仕えた。出自は不明だが、京都で茶湯、歌謡などの諸芸だけでなく、兵学も修めたという。茶湯をもって輝宗に仕えるが、内政にも長けていたため、政宗付となる。政宗が当主となってからはさらに重用され、政宗が仙台を留守にするときには国家老として政務を取り仕切った。政宗が天下人となることを想定して、伊達幕府の諸法度草案を作成していたともいわれる。
中野宗時 なかの むねとき (?~?) 伊達家
伊達家臣。稙宗、晴宗、輝宗に仕えた。稙宗の勢力拡大政策に反対し、稙宗三男・実元の越後守護・上杉定実への養子入り問題をきっかけに晴宗を支持して天文の乱を引き起こした。乱の勝利後は、家臣団の筆頭として権勢をふるったが、輝宗の時代に入って謀反を企てたことが露見して追討を受け、流浪の末に餓死した。
支倉常長 はせくら つねなが (1571~1622) 伊達家
伊達家臣。支倉時政の養子。敬虔なキリシタンとして知られる。文禄・慶長の役では足軽・鉄砲組頭として渡海した。1609年、政宗の命でフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロと共に正史としてローマに渡る。通商交渉が目的とされるが、政宗が天下人となるための軍事同盟目的だったという説も存在する。しかし、ローマ滞在中に日本では禁教令が発令され、帰国して2年後に失意のうちに亡くなった。
原田左馬助 はらだ さまのすけ (1565~1593) 伊達家
伊達家臣。諱は宗時。通称は左馬之助。政宗に仕えた。原田家は伊達家の初代・朝宗の頃から仕える伊達家累代の宿老家。叔父の宗政が討死したため嗣子となって家督を継ぐ。直情果敢な武人で各地を転戦、摺上原の戦いなどで武功を挙げた。朝鮮出兵の際、京都で行われた馬揃えで、後藤信康と共に馬に黒豹の馬鎧をつけ、長さ一間半の金の大太刀を肩から吊るして行進し、京の人々から喝采をあびた。しかし、渡海した朝鮮の地で病を得てしまい、帰国途中に対馬で亡くなった。
茂庭(鬼庭)綱元 もにわ つなもと (1549~1640) 伊達家
伊達家臣。鬼庭良直の嫡男。伊達三傑のひとり。人取橋の戦いの翌年に奉行職に就任し内政面で活躍した。政宗に大崎・葛西一揆の扇動疑惑がかけられた際には、政宗より早く上洛して釈明に奔走し、以後は豊臣秀吉との折衝役となった。朝鮮出兵のときは、肥前名護屋において留守居役をつとめ、物資輸送に従事。他の諸将が物資の補給に苦労する中、綱元の手腕で伊達勢はそれほど困らなかったといわれている。秀吉の提案で苗字を「鬼庭」から「茂庭」に改名するなど、秀吉には大変な気に入られようで、それを妬んだ政宗によって一時出奔するという事態にもなったが、のちに帰参が叶い、関ヶ原の戦い後に伊達家の居城が岩出山城から仙臺(仙台)城に移ると、政宗不在の時の留守居役として領内統治の権限を与えられるほど絶大な信頼を獲得した。
屋代景頼 やしろ かげより (1563~1608) 伊達家
伊達家臣。政宗が元服すると伊達成実、片倉景綱、鬼庭(茂庭)綱元らと共に政宗の側近となった。政宗に従って各地を転戦。葛西大崎一揆の鎮圧では一揆側の主だった者たちを惨殺する役目を受けもった。政宗の信頼厚く、文禄の役(朝鮮出兵)から関ヶ原の戦いまでの約9年間、領地に戻ることがなかった政宗に代わり岩出山城の留守居役として領内の統治を任されている。関ヶ原の戦い後も重臣として重責を担ったが、私成敗に及んだ藩士を庇ったことで政宗の怒りをかい追放された。